History の言葉


《 永瀬庄吉 ながせしょうきち
安政4年(1857年)生まれ。
川口近代鋳物業の先駆者、川口鋳物の技術革新に力を尽くした人。 屋号『薬研屋』(やげんや)の3代目。
東京市芝区赤羽橋の有馬製作所から技術を習得、蒸気機関による送風機を導入、 また旋盤平削機などをも導入し、機械力による鋳造・仕上げ作業を開始した。 また、造型にそれまでの伝統的焼型法に対して、西洋式生型法を紹介・導入し、 鋳物の大量生産を実現した。
明治25年、東京市の水道用大口径異型管の鋳造を受注し盛名を得、 後に荒川河川敷に大工場(永瀬鉄工所)を建設した。
川口町議会議員・川口鋳物同業組合長・川口町長なども歴任、川口の発展に尽力。
明治44年、王子電気軌道会社により川口に電力が供給されるより前の明治33年、 庄吉は自家内に火力発電所を設置し、県内で初めて界隈に電灯を灯した。
昭和20年4月没。(88歳)


《 キューポラ 》
鋳物製造用の鋳鉄を溶かす溶解炉。
鉄製円筒状で、内側に耐火煉瓦を張り、炉の底は鋳物砂を衝き固めて湯溜まりとする。 コークス・銑鉄・少量の石灰石を炉の上部から交互に入れて、下部の羽口から送風機 で空気を送ってコークスを燃焼し、銑鉄を溶解する。(約1500〜1600℃)
溶けた銑鉄は湯溜まりに溜めて、随時か連続的に取り出し、型に注入して鋳物を作る。 鋳物工場の屋根の上に最上部が突き出ており、鋳物の町川口の象徴となった。
川口では明治時代に大量生産を志向する中で燃料・銑鉄・送風機の改良と共に、それ までのコシキ炉に代わり導入されていった。
昭和30〜50年代にかなりの工場で用いられたが、近年は品質や温度管理の容易な 高周波誘導炉(電気炉)が普及している。


《 木型屋 きがたや

木型とは鋳型(溶鉄を流し込んで鋳物を作る砂の型)を作る際に用いる木製の模型。
川口の木型生産は、明治時代の近代産業幕開け、即ち機械鋳物生産が行われるようになった 明治20年(1887)頃から始まったといわれる。それ以前の鋳造も模型は必要としたが、模型 作りの専門職人の手によるものではなく、もっぱら「ひき型(回し型)」が中心で製作が 簡単であったので鋳物師自らが作って用いていた。
従来、この木型の材料は姫小松を主としていたが、戦後の技術革新、新素材の開発により、 昭和40年代から新しい消失模型、ウレタン模型による受注が増加し、更に金型、樹脂型、 石膏鋳型による鋳造用模型の生産業者の増加をみるに至る。
しかし、多くの鋳物業者の市外への転出、転業、廃業などにより、木型業界もこの影響 を受けて、大きな困難と改革の要に迫られている。
写真は外構デザインフェンス用の木型。

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